20181013の読書

スポンサーリンク

10月13日。

昨日は、1日出かけていた。

小説の自由

電車の移動中、kindleで少しだけ『小説の自由』(保坂和志)を読んで、夜に自宅で『対談・文学と人生』(小島信夫・森敦)を読んだ。

前者は、以前に単行本で読んだものを、すでに手放してしまっていたので、Kindleで買って移動中などの隙間時間に読んでいる。

電車の中でも基本的には紙の本を読みたいと思うのだが、リュックを開けるのがめんどくさいときもある。

そういうときにネットニュースとかSNSを見てしまうと時間の浪費なので、Kindleアプリを開く。

Kindleにはサラッと読めるものを入れることが多いが、今回のように「本当は紙の本を読みたい」気分のときは、『小説の自由』のように本来紙で読みたい本を読む。

先日、同書の文庫版を入手したので、おそらくいつか紙で読み直すのだろう。

対談・文学と人生

対談・文学と人生』(小島信夫・森敦)。

「今日で読みきってしまおう」と思って、夜に読み始めたが、終わらなかった。

最後の方は眠くて、たまに小さい寝落ちをし、23時すぎに諦めた。

残り40ページだ。

昨日読んだのがどこからなのかよく分からなくなってしまった。

おそらく昨日読んだ箇所で、印象に残ったのは「下敷き」の話。

・森 いわゆる創作という言葉がいつからはじまったのかしれませんけれども、創作といわれるようになってからは、昔からの金言、名句をあまり使うまいとするようになってきたんですね。だから、紅葉人なんかのものを読んでみましたけれども、どうも一言一句が、それが多ければ多いほど読者はわが意を得たりと思っちゃうわけですね。ところが、創作になってそれがなくなってきたんですね。なくなったんだけれども、金言というものは一つの世界を必ずもっていますから、そのなかに入っていくということをやった人が、僕はカフカだと思うんですね。
・樋口一葉あたり、たとえば『にごりえ』というのがありますね。これは『心中天網島』とよく似ていますね。おそらく知っていて、もちろん勉強もしていたんじゃないかと思う。
・紅葉人なんかも、自分で原書を読んだか読まないかわからないけれども、だれからか聞いているんですね。その筋だけでも、その筋の上に乗って自分がいろいろなものをやっていますね。
たとえば、このごろみんなも言っていますけれども、『罪と罰』と『ハムレット』とかね。

「創作」という概念によって、それまで当たり前に行われていた、前の作品を下敷きにしながら自分の色を出すという作法が失われてきている。そんなことのようだ。

昨日読んでいるときには思い出さなかったが、以前読んだ高橋源一郎の『デビュー作を書くための超「小説」教室』に、「文学史の地図」ということが書かれていて、それはこんなことだ。

かつて小説家たちは、近代文学があって、戦後文学があって、アメリカ文学があって、フランス文学があって……というような、歴史と地理がマッピングされた、文学史の「地図」をもっていました。領域としては、本来、評論家や歴史家が専門とするところかもしれません。
小説を読むこと(あるいは書くこと)は、文学史から自立した体験です。けれども、読書体験とはべつに、教養として読む、文学史の「地図」を片手にした読み方を、していたのです。
しかし、具体的な作家でいえば島田雅彦さんや奥泉光さんから後の世代には、文学史の「地図」の感覚や視点が、あまりないように見受けられます(もちろん個人差はありますが)。
たんに、気に入ったものを読む。おもしろいものを読む。それらが、どのような文学的な体型を形成しているかに、関心を引かれないのです。とても自由であるようにも、とても無防備であるようにも、わたしには思えます。

どうやら、いいものを書くには、いいものを読んだ方がよさそうだ。

僕は中学でも高校でも、「文学史」というものを国語の授業でやった気がするが、それは単に作家名と作品名の羅列とその暗記であり、ほとんど内容を知らなかった。

だから、何かをつくるときに前のものを下敷きにしない場合、それは単に小さな小さな新しさを創出したにすぎないのだ、ということがわかっていなかった。

この1年半くらい、読書をするようになってから、「下敷き」や「地図」の大切さを理解しつつある。

▼ソレオ文学、発売中!

■『投資脳で生きる』を早割りでGETしよう!!!

▼いしざわの活動

■101年倶楽部、メンバー募集中!

■noteでも情報発信中!フォローしてね

スポンサーリンク
スポンサーリンク