「まだ言葉にできない」は「考えていない」のと同じことである
こんにちは、いしざわです。
今回は、「考えを言葉にするということ」の話。
感じていること。それは確かに、完璧には言葉になりませんよね。
嬉しさとか痛さとか。
でも、考えていることは言葉にできなくてはおかしいのです。
先日読んだ『文章の話』(里見弴)に、こんなことが書いてありました。
「そりゃあ、君、なんだよ、……そりゃアね、なんてったらいいか……」そこで、額を指先で叩くとか、目をつぶるとか、要するに、むずかしくものを考え込むような顔つきをしながら、「よくわかってるんだけど、……なんと言ったらいいのかなァ、どうも、うまい言葉がみつからないんだけど……」
こんなことでごまかされてはいけません。あたまのなかによくわかっていることが、どうして言葉に言えないわけがありましょう?言葉以外に、思想を組み立てているものはないのですから、「よくわかっていること」なら、すぐ「すらすら言えるはず」です。
おもしろいですねえ。
前提条件として、人間は言葉で考えている、と。
たしかに、前述の感覚以外のいわゆる思想は、言葉でつくられます。
そして、現在、言葉にできていないのであれば、それは考えが完了していないということだということですね。
なるほど、その通りです。
「思想は固まっているのに言葉という記号にならない」のではなく、「考え抜いていない」だけなんですねえ。
こういった誤った自己認識(考えていると思っている)は油断すると、陥りがちです。
里見弴は、この点について、かなり強い表現で警鐘を鳴らしています。
ごまかし、その場のがれ、負惜み、などの気持ちが、言葉の裏にもやもやしているだけです。一生涯、これに類する口のききようは、お互に、断じてしないことにしようではありませんか。
いやあ、きついですねえ(笑)
でも、それくらい意識してはじめて「考え抜く」習慣ができるのかもしれません。
私も、深く考える人間になりたいものです。
『文章の話』、他にもおもしろい話がたくさん出てくるのでおすすめです。読んでみてください。
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