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考えることと書くことの距離

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11月14日。

久々に晴れた。

(と思っているが、13日までの天気を明確に覚えているわけではない)

遠い触覚』(保坂和志)を読んでいたら、「書くことと考えることは違う」という意味のことが書かれていた。

映画など、何かを理解したように書いた瞬間、対象(となる作品)は遠ざかってしまう。

ただし、書く以前の「考える」なら、遠ざからない。

みたいな話だ。

なるほど、そういうことはあるなと思った。

同時に、では「考える」というのは何をしている行為なのだろうとも考える。

以前に読んだ里見弴の『文章の話』には、考えるというのは言葉でやっているのだから、「考えているんだけど言葉にはなっていない」というのは成立しないんだということが書かれている。

関連:「まだ言葉にできない」は「考えていない」のと同じことである

「まだ言葉にできない」は「考えていない」のと同じことである

ここまで書きながら、わかってきた。

「遠ざかる」という感覚が鍵だ。

近いか、遠いかということは、その作品の中で考えられているかどうかが大切なのだという価値観だ。

その一部を(仮に重要なポイントだとしても)外に持ち出してしまった瞬間、それはその作品そのものではなくて、「その作品の『解説』や『批評』や『要約』という作品になる。

その意味で、「中で考える」のと「外で書く」のは、とても違うと言える。

里見弴の書くように、そのいずれも言葉を通して思考するのだから、「まだ言葉にできない」は「考えていない」のと同じことだ。

一方、感覚には、言葉がない。

感じたことを言葉にした瞬間、それは違うものになる。

感じることと書くことの距離は、考えることと書くことのそれの比ではないほど遠い。

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