究極の手帳、ノートは存在しない。「1冊の手帳と1冊のノート」を使え!
あなたは、手帳とノートを何冊使っているだろうか。
手帳好きの人は、何冊も持っているかもしれない。
かくいうわたしも、そのくちである。
最近は、バレット・ジャーナルなるものが流行っている。
それは自作(主として箇条書きでタスクを管理する)の手帳術なので、理屈のうえでは、手帳は1冊で済む。
にもかかわらず、バレットジャーナル派の中にも、「それ以外にこの手帳とこの手帳を使っています」と言う人は少なくない。
いったいこれは、どういう現象なのだろうか。
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究極の手帳、究極のノート
もし究極の手帳、すなわち、それ一冊あれば他の手帳はいらないと言えるものがあるとしたら、それは「完璧なフォーマットのノートがついた手帳」だ。
もちろん、完璧なフォーマットというのは、使い手個々にとって最適という意味だから、人の数だけ完璧があることになる。
究極のノートも、同じ考え方で説明できる。
「完璧な手帳フォーマットを自ら描いたノート」だ。
ここまで書いてきた「完璧なフォーマット」は、具体的に言えば、紙の質(柔らかさなど)、サイズ、色、罫線、フォントのことだ。
集約ではなく、選択
どちらかをあえて選ぶなら、究極のノートの方が実現可能性が高いかもしれない。
(一瞬、システム手帳なら究極の手帳がつくれそうな気がするが、わたしはそうは思わない。後述。ここでは、綴じ手帳・綴じノートの話とする)
だが、おそらくそんなものはない。
その前段階として、「手帳とノートを1冊ずつにする」という運用が考えられる。
たくさんの手帳やノートを使っている人は、用途ごとに分けているので冊数が増えていく。
根底にあるのは、「最適な紙に書きたい(描きたい)」という欲求だ。
わたしも、1冊への集約を試みては挫折し、結果としてその立場をとってきた。
ところが最近になって、それは狭いものの考え方かもしれないと思い始めている。
「集約」というのは、本当にすべきことなのだろうか。
実は、集約ではなく、選択が必要なのではないか。
つまり、機能(およびそのためのフォーマット)のリストラである。
ひとりの人間が、予定管理、ライフログ、アイデア創出、情報収集、習慣化、タスク管理、振り返り、お金の管理、プロジェクト管理などのすべてに注力することはできない。
だから、誰にも、重要な活動と重要ではない活動があるはずなのだ。
手帳好きほどそれを忘れてしまって、フォーマット中毒になってしまって、詰め込んでいく。
それは、ある意味で不健康な手帳かもしれない。
わたしは、手帳の(わたしにとっての)最も重要な機能を「ライフログ」にする。
この選択によって、手帳はジブン手帳1冊だけになる。
そして、それ以外をすべてノートで行う。
手帳ノート各1冊体制の完成である。
▼いしざわのnote